インド市場

インドに出会う前の私

ここで少し脱線して私のことを書きたいと思います。インドでは意識高いクリエイターや、海外エリート、自由に海外を行き来して生活している仲間たちに囲まれていましたが、私自身はどうだったんだと聞かれたら、私はそれまで数えきれないほど転職と引きこもりを繰り返していたフリーターでした。インドでも、始めのうちは英語が片言しか話せず、ヨガも始めたばかりで、日々をこなすだけで必死でした。

私は若い頃から好奇心と意欲は強かったのですが、疲れやすく、感情の波が激しく、普通の生活が送れないいわゆるアーティストだねとよく言われ、生きづらい人生でした。親にせっかく入れてもらった美大を中退し、母に付き添われ病院を訪ね歩いていたこともありました。見た目はしっかりしていそうなのに、急に引きこもって何もできなくなってしまう私は、家族や職場の人にも理解されず、孤独でした。今のように、うつ病という言葉さえ一般的ではなく、努力が足りないと言われてしまう時代でした。発達障害やADHD、HSPなどの情報ももちろんありませんでした。努力していつか人並みにならなければ、と考えていました。

どの職場でも仕事ができそうで期待されるのに、途中から時間や大事なことが頭から消える、遅刻する、忘れ物をする、ミスをする、みんなと同じことができない、いなくなる、反抗する、感情的になる、最後は疲れて起き上がれなくなり寝込むで、普通に通勤することが難しく常にストレスを感じていました。

アーユルヴェーダと出会う

あるとき本でインドの伝統医学アーユルヴェーダのことを知りました。対処療法的な西洋医学しか知らなかった私にとって、初めて心と体をひとつのものとして扱う考え方でした。私が住んでいた所から遠くない立川にアーユルヴェーダクリニックがあることを知って通い始めました。食事指導やオイルトリートメントを受けているうちに、体調も気分も劇的に軽くなり、生活の質が良くなる体験をしました。院長の蓮村誠先生は、その頃まだ日本で知られていなかったアーユルヴェーダの書籍をたくさん出版されていて、優しく大らかで神秘的なお話を聞いているだけで落ち着きました。

そこで瞑想法と太陽礼拝(ヨガ)も学びました。先生はいつもくよくよ悩んでばかりいた私に、くよくよしていても大丈夫だから、くよくよしながらでいいから毎日瞑想してねとよく言われました。生きているだけで苦しくて泣きたい私に、大丈夫、人生は自然とうまくいきますよと温かい笑顔で言われました。でも当時の私には瞑想はまだよくわからず、続けるのは難しいことでした。

アーユルヴェーダのクリニックに出会った頃は、表参道で働いていたのですが、また体調不良で辞めざるを得なくなり、しばらく休んでいた時に今度はブラジル音楽に惹かれました。クリニックのあった立川の新星堂というCD店にブラジルコーナーがあって、ブラジリアンポップス、サンバ、ボサノバなどのCDを買い集めていました。たまたまそこでアルバイトを募集していたので、面接を受け働き始めたんです。履歴書に美大中退と書いてあるのを見た店長は驚きもせず、楽しそうに、POPが上手そうだな!と言いました。

デザインの仕事を始める

初めは売り場でレジを打ったりしながら、暇な時に店頭でCDを紹介するPOP作りを任されました。POPを作り始めて、私はがぜん張り切り始めました。同じビルに画材屋も文具屋もあり、色紙やマーカーやラメのキラキラ塗料なんかをじゃんじゃん買ってきて、外資系のタワーレコードやバージンメガストアのショップで見たような派手なPOPを作り始めました。初めに私の指導をしてくれた女性の先輩が、うちの会社はそういうことはしない、前例がないと言いましたが聞きませんでした。

スチロールのパネルを電熱カッターで切り抜いて実物大のホイットニー・ヒューストンなんかの看板を作ったり、大きな人形をミシンで縫ってきたり、紙粘土で変なオブジェを作ったり、天井や壁から飾りを吊るしたり、非常口からビルの外に出て看板にスプレーペンキを吹き付けたり、次々と湧いてくるアイデアを形にしていきました。お昼休みは一人で過ごし、時間も予算も無視して作業に没頭する私に、アーティストじゃないんだからと店長は文句を言いながらも、そんな私をかばって応援してくれました。ポンコツな私を許して応援してくれた、当時の職場の方々には本当に感謝しています。

店長からMacを買ってイラストレーター(デザインソフト)を勉強するように勧められ、iMacを買い恵比寿のデザイン学校に通い始めました。でも学校が苦手な私はせっかく授業料を払ったのに1ヶ月ほどで電車に乗るだけで気分が悪くなってしまい退学し、その後は専門書を取り寄せて寝る間も惜しんで独学で学びました。初期の、気が遠くなるほどスローな動きのMacでした。

パソコンでデザインをするようになり、以前よりもっと自由に、もっとプロっぽいものが作れるようになり、仕事の幅も量も増えました。私は店長に交渉して、時給を上げてもらい、制服を着ないで、レジや接客をしないで、フレックスで自由な時間で働けるようにしてもらいました。

私の仕事は社内の人たちに喜ばれ、他店にも仕事に行かされるようになりました。社内で引っ張り凧になり、私のデザインはもうPOPを超えてアートだねと褒めてくれる人もいました。私は仕事に妥協ができず、こだわり過ぎと言われることも多かったです。でもある時会社の上司が私に、パソコンさえあれば誰でも作れるんでしょ?電子レンジみたいなものでしょ?と言ったのを覚えています。

パソコンの前に座っている時間が増え、徹夜のこともあり、また体調が悪くなってきました。CD店では店のあちこちから大音量で音楽が流れてくるので、蓮村先生からヴァータが乱れるから職場を変えた方がいいと言われていましたが、辞めたら行く先がないと考えていました。

現代ヨガに出会う

その頃に、雑誌でスーパーモデルやハリウッドスターがやっているヨガのことを知りました。ヨガは体だけでなく精神性を高めてくれるもののようで、精神性なんてそれまで考えたこともありませんでしたが、惹かれました。初めはカルチャーセンターの古典的なヨガに通ってみたんですが、先生も生徒さんもご年配で、私のイメージしていたスタイリッシュなヨガとは違うようでした。ファッション雑誌の片隅に小さくインターナショナルヨガセンターが掲載されていて、ハラクマケン先生と金髪のモデルのような白人女性の先生の写真が出ていました。カルチャーセンターはやめてここにいく!と決めました。インターナショナルヨガセンターも立川と同じ中央線の荻窪駅の近くで、仕事の前や後に通える場所でした。

そこで初めて受けたクラスはその金髪のモデルのようにかっこいいカナダ人の先生で、生徒さんも大半が外国人でした。その後はハラクマケン先生のクラスに出るようになり、ここからインドのマイソールに行く流れに繋がります。アシュタンガヨガを始めてまたどんどん調子が良くなり、考えも前向きになり、さらに仕事も面白くなってきたところで、もっと強く健康に元気になりたい!人生が変わりそう!と思ってインドへ行ってしまったわけです。

インドでは私はヨガも英語も苦手で車の運転もできませんでしたが、みんなのために料理をしたりチャイを作ったり、市場でカラフルな花を買って部屋に活けたりして喜ばれました。私以外のエリート女子たちはバカンス中は料理は作らない、家事はしたくないと言っていました。

私はヨガのポーズの名前や順番がなかなか覚えられず、紙に小さくヨガのポーズのイラストを描いて持ち歩いていました。それを見た友人たちが可愛い!素晴らしい!なつこはアーティストだね!と、リスペクトを込めて言ってくれました。自分では下手なイラストだと思っていたので、欧米人は褒め上手だな〜、みんな自己肯定感が高いな〜と思いました。

つづく

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